郷土と天文の博物館ブログ

八幡講(はちまんこう)の草相撲

令和2年10月16日

 大相撲秋場所で大活躍した翔猿(とびざる)関は、江戸川区上一色小学校時代、葛飾白鳥相撲教室で腕を磨いていたそうです。公式には江戸川区出身と紹介されていますが葛飾区にもたいへん縁の深いお相撲さんです。
 さて、昭和20年代は各地で草相撲が盛んでした。相撲は空き地があればだれでもできることもあって、男の子の遊びとしてしたしまれていました。大人たちの間でも相撲ファンは多く、その中には見るだけでなく自分たちもやってみようという人が大変多かったのです。
 村祭りや会社の運動会などでも相撲が行われていました。東京ではとくに葛飾区、江戸川区、足立区など昭和20年代はまだ農村地帯だったところで草相撲が盛んでした。

 葛飾区では昭和20年代には、葛飾区東水元の日枝(ひえ)神社、新宿の水神社でお祭りの日に相撲の興行がありました。この相撲はプロの大相撲力士がとるのではなく、八幡講と呼ばれるアマチュアの力士たちの仲間が行うものでした。葛飾区では新宿や奥戸などに八幡講の力士が多くいました。
 八幡講の力士たちは、日ごろは農業をしている人が多く、力自慢で、その日の作業が終わると庭の広い家によりあって相撲のけいこをしました。相撲が行われる祭りが近くなると一段と熱が入ったものだそうです。八幡講の相撲はちゃんとまわしをしめて、土俵入りには化粧まわしをしめます。番付もあって行司、呼び出しもいる本格的なものでした。勝負は勝ち抜き戦で、一番勝ちぬいた人が優勝です。勝負の合間には、余興として初っ切りも行われました。
 どこの草相撲でも賞金や商品が出るのでそれが楽しみでした。田植えが終わり、田の草取りが一段落すると八幡講の仲間は連れ立って相撲巡業の旅に出ました。埼玉県蕨市や越谷市などは相撲が盛んで葛飾区の八幡講と腕を競い合ったものでした。遠いところでは福島県いわき市あたりまで相撲の旅に出かける人もいて、たくさんの賞金を稼いで帰ってきたそうです。
 葛飾区域の八幡講力士は、少なくとも江戸時代終わりころには活動していたようです。葛飾区東新小岩四丁目の天祖(てんそ)神社には「力持ち連中」という力自慢の仲間が立てた明治29年銘の石碑があります。ここには力石という、80キロにも及ぶ大きな石を担ぎあって、力を競った力士たちの名前が刻まれています。「力持ち連中」とは八幡講の力士たちと考えられます。
 また、ここに出てくる力士の名前の入った板番付が東四つ木の白髭(しらひげ)神社に残っています。余談ですがこの渋江白髭神社の番付に「大関」の位置で出ている小松風(こまつかぜ)という力士は歌手の松崎しげるさんの先祖であることがNHKテレビ「ファミリーヒストリー」という番組で紹介されました。

 神話の時代、七夕の節会の余興として始まったといわれる相撲は時を経て、江戸時代には体力に恵まれた男たちの格闘技になりました。男たちの怪力は病魔を封じ、火事や地震で非業の死を遂げた人を鎮魂する力があると考えられてきました。江戸時代から現在に至るまで相撲を取る力士たちの怪力は人々に尊敬され、幾人ものヒーローを生んでいきました。

記事:博物館学芸員(民俗担当)

葛飾区が発行している書籍「葛飾区史」(328-329ページ)にも“草相撲”について掲載しています。
葛飾区史ホームページでは電子版(PDF)をご覧いただけます。

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