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感染症と人々の戦い方の歴史
令和3年9月30日新型コロナウィルスの流行が私たちの生活に影響を及ぼすようになってからおよそ2年が経過しようとしています。ワクチンの接種や治療薬の開発などが課題となっていますが、日本でこうした感染症が流行したのは初めてではありません。
人類と感染症の戦いは永遠に続くといわれています。やがて新型コロナウィルスの流行が収束に向かったとしても、近い将来新たな感染症が私たちの前に立ちはだかることもあるかもしれません。今日は蔓延する感染症と人々の戦い方の歴史を振り返ってみましょう。
江戸時代の戦い
江戸時代の終わりごろ、たくさんの人たちを、たびたび恐怖のどん底に追い込んだ感染症はコレラでした。コレラはもともとインドの風土病の一つだったのですが、欧米の植民地政策によって世界中に広まりました。とくに安政5年(1858)、5月に長崎に入港したアメリカ船にコレラ患者がいたことから日本でも大流行が始まり、広島・大坂と伝染が続き7月から8月にかけて江戸での大流行が始まりました。江戸での死者は3万人を超えたといわれています。
当時の江戸近郊の様子を記した『武江年表』によると、「大方は即時に吐き気を催し、吐瀉してのち続けて、瀉痢をなし、手足厥冷し、なえしびれてたちどころに絶命す」とあります。夕方まで元気だった人が朝には亡くなっているという塩梅でした。
当時の日本の医学はおもに漢方医学でした。当時の漢方によるコレラへの対処は十分とはいえませんでしたが、決して無力ではなく、一定の効果が期待できるものでした。しかし一方で神頼みによる病気平癒の祈願も盛んにおこなわれていました。
「武江年表」には「巷に忌竹をたて軒端に〆を結わへ、あるいは軒端に提灯を灯し連ね、あるいは路上に三峯山遥拝の小祠を営みしところもあり」とコレラをお祭りのようなしつらえをして撃退しようと懸命です。
また、「節分のごとく豆をまき門松をたてけるもありし」とあるように正月を改めてやり直し、いままでの禍々しい出来事がなかったことにしようというまじないもありました。
葛飾区内に残る戦いの痕跡
当時、江戸近郊の農村であった葛飾区域ではどうだったでしょうか。残念ながら被害の様子を具体的に記した資料は残っていませんが、このときにコレラが鎮まるようにと、人々が神社に奉納した絵馬が何枚か残っています。
その絵馬の絵柄は「裸参り」と呼ばれるものです。白衣を着て上半身裸になった男たちが神社の境内で提灯を携え、輪になって歩いている様子が書かれています。男たちは赤い綱を回しています。この赤い綱はしめ縄のようです。
まったく同じような絵柄の絵馬が青戸2丁目の中原八幡神社、奥戸の八劔神社に奉納されていて、いずれも葛飾区指定文化財となっています。中原八幡神社の絵馬には「安政五年」という年号が記されています。そして近年、東立石の諏訪神社でも同じ絵柄の絵馬が発見されました。絵馬に記された年号はやはりコレラが流行した安政5年と明治28年のものでした。
裸参りは、その後も継承された儀礼ではなく、コレラが流行した年に行われた一過性のものと思われます。コレラという困難を乗り切るために、当時の人々が心を一つにして疫病に立ち向かった証が「裸参りの絵馬」であると考えられます。
記事:博物館学芸員(民俗担当)
※このブログの内容は"FMかつしか「まなびランド」"で令和3年9月22日に放送した内容を編集したものです。博物館専門調査員(情報担当)