郷土と天文の博物館ブログ

葛飾区の遺跡

令和4年3月17日

みなさんは葛飾に遺跡がいくつあるかご存じですか。葛飾には27ヵ所遺跡があります。土器などの地中に埋もれた文化財を含む土地、いわゆる「遺跡」のことを文化財保護法では埋蔵文化財包蔵地といいます。全国で約46万か所あり、毎年9千件程度の発掘調査がおこなわれています。包蔵地で建物を建てるなど開発工事をおこなう場合には、事前に届け出を受けた上で埋蔵文化財があるかを調査します。葛飾区でも月に3、4件ほどの頻度で調査をおこなっており、今年度は奥戸や青戸、柴又などで多く調査を実施しました。時折、調査の中で土器や陶器が見つかることもあります。

写真:発掘調査の様子
発掘調査からわかる葛飾

土器などの発見から、古い時代の葛飾の様子を知ることができます。今から約6000年前、温暖な気候で海水面は今よりも高く、東京低地に位置する葛飾は海の中にありました。やがて気候の変化とともに海水面が低下し、海だった葛飾区域も陸地となっていきました。そして葛飾区域に人々が住み始めたのは古墳時代頃からと考えられています。では、人々は葛飾のどこに住んだのでしょうか。葛飾の地形に注目してみると、微高地と呼ばれる周囲の土地よりわずかに高いところがあります。このような場所に人々は住居を構え、集落ができていったと考えられます。奥戸・青戸・柴又などの地区では、微高地上に集落跡とされる遺跡が広がっています。

奥戸の遺跡

先に奥戸や青戸などで多く調査をおこなったと述べましたが、奥戸の遺跡に注目してみたいと思います。奥戸街道から南に位置するところに本郷遺跡、鬼塚遺跡があります。2つの遺跡は南北に隣接して位置しており、古墳時代から奈良・平安時代まで継続した集落と考えられます。北側の本郷遺跡からは竪穴たてあな住居や井戸などの集落の様子がうかがえる遺構に加えて、稲作に使ったとされる平安時代の農具も出土しています。一方の鬼塚遺跡でも集落に関わる掘立柱ほったてばしら建物跡や井戸などが見つかっています。この地域では農耕を主要な生業とする集落が存在していたと推測されます。

さらに、本郷遺跡や鬼塚遺跡からは中世以降の陶器も見つかっています。日本には多くの陶磁器の産地がありますが、2つの遺跡から出土した陶器は常滑系、瀬戸・美濃系のものがあります。特に愛知県の常滑や瀬戸は日本六古窯ろっこように数えられ、中世から現代まで続く焼き物の一大産地にあたります。古くからこれらの地域と葛飾に住む人々の間で人やものの移動や交流があったのかもしれません。また、一度に大量の焼き物を、遠く離れた現地から葛飾まで運ぶのは困難であったでしょうから、輸送の際には水運などを利用して葛飾まで運ばれた可能性もあります。

今日は奥戸に注目を当ててきましたが、詳細が明らかになっていない遺跡もあります。調査の成果や出土した遺物などを通して、今後も葛飾の歴史をみなさんに発信していきたいと考えています。

記事:博物館専門調査員(考古学担当)/写真:博物館学芸員(考古学担当)

※このブログの内容は"FMかつしか「まなびランド」"で令和4年3月2日に放送した内容を編集したものです。博物館専門調査員(情報担当)

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