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稲荷いなり様とそのご利益りやく~江戸時代の半田はんだ稲荷神社~

令和5年9月22日

 神社の中でも最もポピュラーな神様の一つであるお稲荷様とそのご利益についてお話しします。お稲荷様をまつる神社やホコラは、神様のお使いであるキツネの像が特徴的ですので、皆さんも見かけることが多いのではないでしょうか。実は、葛飾区をはじめ東京都周辺はお稲荷様の神社がとても多い地域なんです。そのご利益は、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全のほか、安産や万病平癒、火の用心、武運長久、天下泰平など、あらゆる願いに対応できるという特徴があります。お稲荷様は昔から農民、町民、武士など幅広い社会層で信仰され、個人の屋敷や企業の社屋しゃおくなどで祀られることが多いのも、万能型のご利益という守備範囲の広さは理由の一つだと思われます。

 様々なご利益があるお稲荷様ですが、その祭神はウカノミタマノカミという穀物の神様とされています。『山城国風土記』逸文いつぶんによりますと、お稲荷様は渡来系のはたという氏族が祀った稲作に関わる神様として登場します。稲荷神社の総本宮である京都の伏見稲荷大社では、この説話を奈良時代初めの和銅4年(711)2月のこととして伝えています。秦氏は絹の生産や機織りなどの産業のほか、交易活動に従事する氏族としても知られていますので、お稲荷様が各地で信仰され、そのご利益が五穀豊穣のみならず商売繁盛や産業興隆などを期待されるようになったのも、そもそもは秦氏の活動という歴史的背景が下地となっていたのかもしれません。

 江戸時代になりますと、急速に大都市となった江戸とその周辺の近郊農村では稲荷信仰が盛んとなります。お稲荷様の神社やホコラは、火事や喧嘩と並ぶ江戸の名物の一つにあげられるほど沢山立てられました。こうした稲荷信仰の都市化・大衆化とともに、特定のお稲荷様に特別なご利益を求める人々の祈りが沸き起こります。葛飾区の東金町に鎮座する半田稲荷神社もそうした神社の一つです。半田稲荷神社は18世紀前半の享保の頃から、武士や江戸の町民の間で信仰が高まりを見せ始めます。18世紀終り頃には疱瘡ほうそうとよばれた天然痘や、麻疹はしかの病を軽くするほか、安産祈願にも霊験あらたかなお稲荷様として江戸市中の人々に大いにもてはやされました。この盛り上がりに貢献したのが願人坊主がんにんぼうずと呼ばれた人々です。願人とは人々の代わりに祈願して参詣さんけい水垢離みずごりを行う宗教者のことです。赤い衣に赤い頭巾の赤装束で「半田稲荷大明神」ののぼりを持って、「疱瘡も軽い、麻疹も軽い」と歌いながら江戸市中を歩き廻る姿が評判となり、歌舞伎の題材にも取り上げられたほどでした。

写真:歌舞伎の題材となった願人坊主の浮世絵(江戸時代後期) (歌川国丸「けいせい半田稲荷業ひら」 当館蔵)

 しかし、当時は近郊の農村だった葛飾の半田稲荷神社が何故江戸市中で信仰されたのでしょうか。はっきりとしたことはわかりませんが、半田稲荷神社は明治7年に村社として公的に位置付けられるまでは村の鎮守ちんじゅではなかったこともあり、その信仰基盤は当初から地元の範囲を越えて形成されたのでしょう。また、半田稲荷神社の所在する東金町は水戸道が通り、江戸川から内陸部に向かう河川交通のルート上にも位置し、金町松戸関所が設けられていた交通の要衝ようしょうだったことも関係していると思われます。

 どこにでもあるお稲様ですが、半田稲荷神社のようにその歴史やご利益の在り方にはそれぞれ個性があります。皆さんの身近にあるお稲荷様にもきっと人々の思いが詰まった知られざる歴史があるはずです。博物館ではこれからもそんな地域の歴史と文化に光をあてて皆様にお届けしていきます。

記事:博物館専門調査員(歴史・文化財担当)
 

  • 上記画像の浮世絵 歌川国丸「けいせい半田稲荷業ひら」は、現在開催中の企画展「浮世絵に描かれたかつしか」で令和5年10月9日(月曜日・祝日)まで展示しています。また令和5年12月9日(土曜日)から開催予定の特別展「The利益りやく」の中でも、半田稲荷に関する展示を予定しています。

※このブログの内容は"FMかつしか「まなびランド」"で令和5年9月6日に放送した内容を編集したものです。
博物館専門調査員(情報担当)

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