郷土と天文の博物館ブログ

葛飾という名称について

令和6年10月25日

 区の名前ともなっている葛飾についてのお話をしたいと思います。ご存じでしょうか。元々葛飾とは、現在の葛飾区だけではありませんでした。江東区、江戸川区、墨田区等の一部と、千葉県北西部、埼玉県東部、茨城県西部の一部を含んだもっと広いエリアの名称でした。古代の律令制下において、全国に国という、今でいう都道府県のような行政区が設けられますが、その国の中に郡というものが設けられます。下総国の中に設けられた郡の一つが葛飾郡でした。

写真:ブログのタイトルとイラストの地図

 葛飾郡の地形を大雑把にいうと、その東部が下総台地、西部が中川低地や東京低地です。西部の低地帯には多くの川が流れていました。同時にそれは、氾濫しやすいというリスクがありました。一方で、河川の氾濫や、洪水さえ起らなければ農作物の高い生産力が見込めるというメリットもありました。「エジプトはナイルの賜物」という言葉がありますように、葛飾郡は、河川流域という地理的な特性から、土地が肥えていたところが少なくなかったと考えられます。

 この葛飾郡は、現在の葛飾区域を含めた約半分が、遅くとも江戸時代初期には武蔵国に編入されます。また、葛飾郡は江戸周辺の他の郡とは趣を異にし、当初その大部分が幕府直轄領となります。幕府が葛飾郡を直轄領とした理由は、先に述べたような葛飾郡ならではの生産力の高さ等にあったと言われています。江戸時代は、米をどれだけ収穫できる土地であるかが重要視されたともいえるでしょう。土地にかかる税=年貢などの負担は村が単位でしたが、その村が、新田開発によって細胞分裂でもするかのように増えていくのが江戸時代です。今の葛飾区域もその例外ではありません。ただ葛飾区域に存在した江戸時代の村々の特徴は、その新旧を問わず、江戸時代が終わるまで幕府直轄領であったところがほとんどで、その比率の高さが他地域よりも際立っていることです。これは先に述べた生産力の高さと、江戸との距離的近さが理由であったと思います。

 時代がくだって近代・明治期に入ると、葛飾郡は東・西・南・北・中の五つに分けられましたが、現在の葛飾区域は南葛飾郡となりました。大雑把に言えば、現在の千葉県エリアが東葛飾郡、茨城県エリアが西葛飾郡、埼玉県エリアが北及び中葛飾郡となりました。

 このように、現在の区名となっている葛飾とは、元々とても広い地域を指した名称であり、歴史的にも為政者などから重要視された地域だったのです。そういう意味でも、みなさんがお住まいになっているこの葛飾区も、誇るべき土地柄であったということでもあります。

 

  • 葛飾郡については「葛飾区史ホームページでも解説しています。ぜひご覧ください。
    ※「第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)―第1節 古代の葛飾―律令国家と大嶋郷戸籍:下総国と葛飾郡」のページへのリンクです。イラストの地図で葛飾郡の位置もご覧になれます。

記事:博物館専門調査員(歴史・文化財担当)

※このブログの内容は"FMかつしか「まなびランド」"で令和6年10月16日に放送した内容を編集したものです。
博物館専門調査員(情報担当)

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