プラネタリウム

第114回 江戸近郊の天文現象と民俗 江戸時代の人々と自然のかかわり

星の文化をテーマに、民俗学の視点から星や月にまつわるお話をお送りしました。

(講師からのメッセージ)
江戸時代の人々は夜空の星を見上げて何を思い、何を願っていたのでしょうか。星や月にかかわる民俗文化財をひもといていくと、江戸時代の人々が天文現象という自然からのメッセージをどうとらえていたのかがわかってきます。江戸とその近郊の農村、漁村をフィールドとして、天文現象と人の暮らしのかかわりを考えます。

概要

日時

令和5年2月25日(土曜日)午後7時~午後8時30分

講師

堀 充宏(ほり・みつひろ)
当館学芸員(民俗学)

講演プログラム(当日配布したレジュメより)

  1. 布良星
    :布良星の伝承
    :入定塚とカノープス
    :西春法師の伝承
    コーナー 
    プラネタリウムで星空を(月とカノープス)
  2. 庚申待ちと月待ち
    :庚申信仰とは
    :青戸の二十一仏庚申塔
    :柴又帝釈天と庚申信仰
    :月待供養
  3. 江戸の町の星空
    :赤き星いずる
    :珍星稲星
    :オーロラも見えた!

質疑応答

聴講者からの質問と講師回答

葛飾区内の庚申塔こうしんとうをすべて知ることができますか。(?さん・女性・69歳)

 現在判明している葛飾区内の庚申塔は『葛飾区石仏調査報告』(昭和57年 葛飾区教育委員会)に所収されています。この本はお近くにある葛飾区立図書館で見ることができます。

庚申講について:私の祖母が明治40年代生まれですが、帝釈天の庚申の日にはよくおまいりにいっていました。祖母は小石川村の生まれで柴又にはずいぶん離れた場所の育ちです。庚申講はどのように広まったのでしょうか。(Hさん・地球人・56歳)

 ご質問の趣旨は「柴又帝釈天の信仰がどのように広まったのか?」ということと判断させていただきます。
 柴又、題経寺だいきょうじ(帝釈天)の信仰の広がりについて、題経寺は安永7年(1778)、それまで行方不明であった日蓮上人が自ら梨の木の板に帝釈天の姿を刻んだ本尊(以下、板本尊と表現します)が発見されたことにより、それまで荒廃していた寺が一気に勢いを盛りかえします。
 板本尊を版木のように使い、帝釈天の姿を刷り物にした札が、近在の日蓮宗寺院などの手を経て江戸市中や近在の日蓮宗信者たちに頒布されました。こうした布教活動が19世紀には積極的に行われ、まず日蓮宗信徒を中心に帝釈天題経寺の信仰が広まりました。講演の時にご紹介した「帝釈天型庚申塔」はこうしたころ造立されたと考えられます。
また、帝釈天題経寺の参道には歌舞伎の役者衆や魚河岸関係者、新吉原の遊郭経営者たちの名前が刻まれているものが存在します。こうした人たちは自らの商売繁盛を求めてご利益が授かるという評判が高い寺社を信仰することが多く、帝釈天題経寺が日蓮宗という宗派を超えて広い階層、範囲の人たちから信仰を集めるようになってきたことがわかります。
 明治時代になると鉄道が整備され、帝釈天題計経寺に参詣する人が多く利用した、「柴又人車鉄道」が開業します。やがてこの人車鉄道は京成電鉄に引き継がれ、帝釈天題経寺はいっそう多くの人たちが訪れるようになります。このころには題経寺は日蓮宗の一寺院というよりも、高い現世利益げんせいりやくを授けてくれるお寺として知られるようになります。帝釈天題経寺がある柴又は明治のころは田畑が広がる田園地帯であり春は江戸川堤防の桜が人々の目を楽しませてくれるところでもありました。
こうしたいくつかの要素が重なり、題経寺を訪れる人が増えていったのだと思います。

今日に至るまで日本の信仰は仏教と共に神道もあったと思いますが、神道系の文化や行事に添ったものも有ったのでしょうか(江戸時代では仏教文化がメインだった?)。(Mさん・女性・30代)

 江戸時代は神道の神が仏の姿となって人間の前に現れるという「本地垂迹ほんじすいじゃく」という考え方が広まっており、庶民の間では仏教と神道の区別がつけにくい状態が一般的でした。例えば葛飾区奥戸の天王てんのう神社は本来の祭神は素戔嗚尊すさのおのみことですが、人々の前には牛頭天王ごずてんのうとして現れるため、社名も「天王神社」であり、祭礼の時は妙厳寺という寺院のご住職がきています。
 そうしたことを前提として考えていただいたうえで、天文と関係が深い神社として妙見社みょうけんしゃを上げることができます。妙見社は北極星もしくは北斗七星を神体と考える神社です。本地垂迹説では妙見菩薩が本地仏ほんじぶつとなります。
 北斗七星、北極星を神と祀るまつる考え方は庚申こうしん信仰にも強い影響を与えた道教どうきょうが介在しています。道教では北極星を「天帝てんてい」としています。また北斗七星のなかに「破軍星はぐんせい」という星があるとして、軍神として妙見を祀る考えも平安時代に広まり関東の豪族である千葉氏も妙見信仰を持っていたことがよく知られています。

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