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「青戸御殿」とその名称
令和6年8月7日徳川家康をはじめ、秀忠、家光、江戸時代前期の将軍が利用した青戸御殿についてお話しします。
青戸御殿は、家康が江戸幕府を開いて間もない頃、小田原北条氏の滅亡とともに廃絶された葛西城をベースに造られました。現在、葛飾区青戸7丁目に環状七号線を挟んで葛西城址公園と御殿山公園がありますが、ここに葛西城や青戸御殿の中心施設がありました。青戸御殿は主に鷹狩の際の宿泊や休憩に利用されていましたが、3代将軍家光以降はあまり使われず、17世紀中に取り壊されます。
1970~80年代、環状七号線建設工事に伴う発掘調査によって、青戸御殿は戦国時代の葛西城とともにその存在が注目されました。現在、その名称は青戸御殿の呼称で定着していますが、当時は葛西御殿と呼ばれていました。実は青戸御殿の名称が一般化するのは1990年代終わり頃と意外に最近なのです。それは、中世の葛西城と近世の御殿を混同しないようにするための配慮からなされたものでした。
青戸御殿の名称の根拠は、文政13年(1830)成立の『新編武蔵風土記稿』という幕府編纂の地誌に掲載された絵図にあります。この絵図は、青戸御殿が廃絶して間もない貞享5年(1688)に作成された図面の写しで、地元住民が持っていたものです。そこには土塁らしきものに囲まれ、青戸御殿と記された郭(区画)がみえます。ただ、ここにみえる青戸御殿は将軍の御座所がある主郭のみを指し、厩などがある別の郭を含む御殿全体の名称ではありません。他の史料には青戸御殿の名前すらみえません。御殿が存在していた17世紀の史料は「かさい」という地域名が記されるばかりで、そのほかは単に「御旅館」や離れた館と書く「離館」などの語句がみえる程度です。御殿は寛永16年(1639)に改修されますが、これ以降、「葛西御殿」という名前が見え始めます。『新編武蔵風土記稿』の絵図は改修後の御殿が廃絶した姿を描いたものとなります。
青戸御殿という名称は、学術用語として使う分には問題ありませんが、その名称によって御殿と所在地の関係ばかりを意識してしまわないように注意しなければいけません。家康が御殿を造営した頃は徳川による関東の支配は始まったばかりで、江戸近郊の地域支配は幕府を支える基盤として盤石とはいえない時期でした。御殿は葛西地域が将軍の支配下にあることを領民に実感させる象徴であり、所在地名ではなく領域的な地域名の葛西で呼称された要因もそこにあったのかもしれません。
ただ、徳川の支配が固まると御殿の役割も変化します。8代将軍吉宗は改めて葛西を鷹狩の場として編成し、小菅に御殿を造営しますが、御殿の名前は当初から所在地名を冠した小菅御殿でした。この時期の御殿には地域支配の象徴的意味合いはなかったということでしょう。一方、小菅御殿の成立は、かつて御殿があった青戸の住民の歴史意識を刺激した可能性があります。『新編武蔵風土記稿』の絵図にみえる「青戸御殿」の語句も、そうした意識によって書き足されたのかもしれません。
ちなみに、18世紀以降の史料を見ると、青戸の住民が伝えた御殿の記憶は、江戸幕府ではなく鎌倉時代の伝説的な武士として知られる青砥藤綱と結びついて語られるようになっていたことがうかがえます。そうした歴史意識が生じた背景も興味深い問題です。
記事:博物館専門調査員(歴史・文化財担当)
- 令和6年8月3日(土曜日)から開催の特別展「徳川三代と青戸御殿」の中でも、御殿に関する展示を行います。ぜひご覧ください。
※このブログの内容は"FMかつしか「まなびランド」"で令和6年7月24日に放送した内容を編集したものです。
博物館専門調査員(情報担当)